まずは、昭和28年から53年間続いている「朝の小鳥」。録音や海外探鳥会のお世話のため外国にも足を伸ばすことになった蒲谷先生。ご自宅にある一番古いパスポートと当時アメリカ領だった沖縄に入国するための許可書を掲げて、書類がでるのに大変な手続きと時間がついやされ、当時の日本の情勢から大変ご苦労されたお話をされました。今回は世界のなかからヨーロッパ・アフリカ・インド・台湾・オーストラリア・北アメリカ・南アメリカの鳥を特に名高いというわけではなく鳴き声が良いもの、先生ご自身が感銘を受けられた鳥を紹介くださいました。
10分の休憩の後、松田さんとの対談形式で、海外旅行が珍しかった頃の思い出や、怖い思いをしたこと、最後に今後海外に旅行をする人へのアドバイス等を一時間に渡って語っていただきました。録音取材の時だけでなく、公私にわたって長くお付き合いのある松田さんのリードで、蒲谷先生の穏やかな語りが続きました。
松田さん |
「この前はいながらにして日光を一回りした感じでしたが、今日は80分世界一周ぐらいの感じで回ってこられたということで。多くの方が海外旅行は御経験されてると思いますが、先生が行くようなところは多分行ったことがない方が多いのではないかと思います。今日はそんなお話をしていただきたいと思っております。実は私も海外旅行に初めて行ったときは、まだ成田はなかったんですよね。羽田だから行きましてね。今若い人に羽田から外国行ったというとびっくりするんですよね。ところが、それ以前のお話が伺えるということです。」
「一番最初に外国に行ったのはどこの国だったんでしょうか?」 |
蒲谷先生 |
「文化放送の朝の小鳥が、昭和28年に始りました。それから10年経って昭和38年に10周年記念で外国へ行きたいっていうのを文化放送が許可してくれまして、いちばん近い外国の台湾へ行って、その帰りに沖縄に寄って、沖縄の鳥を録音して帰ってくるという、約一カ月近い取材でした。ところが、今は外国にも極めて自由に行かれるんですけれども、昭和38年のころは外国へ行くのにお金を、ドルを買えないんです。私は文化放送の特派員という形でパスポートを申請して、いくらドルと取り換えたか、パスポートに書いてあります。これが当時のパスポートで、本皮で大平さんが日本国外務大臣と書いてある。『蒲谷鶴彦 右の者は日本国民であって、報道のため、以下余白、第なんとかかんとか・・・以下記載の諸国へ赴くから、通路故障無く旅行させ、かつ、必要な・・・を与えられることを、諸官に要請する。昭和38年3月20日』って書いてある。こんな古めかしいパスポートででかけたわけです。」
「ところが(パスポートは)書類が揃えば一週間か十日で出たんですが、沖縄が大変でした。御存知の方も多いと思いますが、昭和20年に終戦になってから、沖縄はアメリカ軍の占領下にありまして。アメリカ軍が良いといわないと、日本人でも沖縄に行くことができなかったんです。それで、沖縄の米軍の証明書をもらうのに2〜3月かかりました。こういうの(書類)は見たことない方が多いと思いますが、身分証明書という書類が必要なんです。その時の総理大臣は池田勇人で『内閣総理大臣 池田勇人 昭和38年4月9日』って書いてある。『蒲谷鶴彦は小鳥の声の録音の目的で、南西諸島へ赴く』と書いてあります。鳥の鳴き声以外のことすると、怒られてしまう・・・って感じでした。それで、やっと沖縄へ入ることが出来た、と。」
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松田さん |
「(パスポートの写真の)先生がめちゃ若いですね(笑)。」
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蒲谷先生 |
「そりゃ、若いときもありましたよ(笑)。」 |
松田さん |
「僕がお会いしたのは、もっと後だったように記憶しておりますけれども。若いときもあったということで・・・。」
「今、パスポートは何冊ぐらい(お持ちなんですか)?」 |
蒲谷先生 |
「このぐらい(20センチくらいの厚さを手で示しながら)あります。」
「今はね、数次の旅券で赤い表紙で、ビニールかなんかで、ちっちゃくなっちゃったんですが、昔はちゃんと本皮の立派なパスポートで、一回限りです、これ。ですから外国へ行って帰ってくると、もうそれは無効になってしまって、一年に2度も3度も行くときは、これが2冊も3冊もこれが必要だと。ですから、溜まりに溜まってこれくらいあります。その中からいちばん古いのを選んできました。これが最初のパスポートです。これが最初の身分証明書。」
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松田さん |
「すごいですね。今のに比べてすごく重々しいですね。」
「初めて拝見しました。これは台湾の入国の判子ですか?ビザも要るんですか。当時、台湾は戒厳令が布かれていましたね。そういう危険は感じられませんでしたか?」 |
蒲谷先生 |
「うん、そう。韓国も戒厳令で。」 |
松田さん |
「そうですね。そういう状態の中で録音をされに行ったということですが。」
「結局、全部で何カ国くらいになったんですか?」 |
蒲谷先生 |
「80近いですね。数えたときに77だから、その後数えてないんで・・・。80近いと思うんですが・・・」 |
松田さん |
「その中で一番よくいらした国というと?」 |
蒲谷先生 |
「そうねぇ、やっぱり、台湾が一番多いかなぁ。というのはね、東南アジアに行ったり、南回りで出かけるときが多かったんで。最初の頃はね、北周り、シベリア上空をソビエト連邦が飛ばさなかったから。それでね。南周りというね、ホンコンから、インドから地中海の方を通って、ヨーロッパへ行っていた。そういうことだったんです。」 |
松田さん |
「そうすると、そのころは日本のツアーでおばさん達が10人、20人、ぞろぞろ来るようなツアーはなかったんですか?」 |
蒲谷先生 |
「全然、ないです。だって、商売目的とか、商用とか、そういう政府が特別にOKとする理由がないかぎり、外貨、ドルが買えないから。闇ドルは、まぁ、あるにはあったんですけどね。私の場合は2,000ドルまで買えるんだけども、その頃は1ドル=360円だから、2,000ドルなんて大変な額で。とてもそんなに買えない。」 |
松田さん |
「360円といっても今の360円とちがって、初任給が10万もないくらいの時代でしたからね」 |
蒲谷先生 |
「だから、これ(書類)を見ると、最初に買ったのは、キャッシュで493ドル、TC、旅行クーポン券で500ドル。昭和38年の4月9日って書いてあって、ちゃんとうしろにいくら買ったか書いてある。ですから1,000ドル。36万ですか」 |
松田さん |
「36万ですね。当時のね。(今なら)100万近いですね。」
「あと、自分の貯金がいくらあるか証明しないと海外に行けないとかっていうの、ありましたよね。私の時もそうでした。50万だったか30万だったかの通帳を見せないといけなかったんですよね。そういうときでしたよね。」
「当然、羽田からおでかけになって。」 |
蒲谷先生 |
「DCー8(注:DCー8は、ジェット機。DCー7か?)、プロペラ機で。ジェット機なんかなかったですから。」 |
松田さん |
「台湾に行くにはどれくらいかかったんですか?台湾に行くにも5〜6時間かかるんですか?」 |
蒲谷先生 |
「そうですね。5時間ぐらいかかったんじゃない?」 |
松田さん |
「そういう時代だったんですね。」
「そういう旅行を何回もされてますんで、海外旅行、良い思い出もあると思いますし、今のお話を伺っているだけでワクワクする感じですが、一番いい思い出というと、どんな?」 |
蒲谷先生 |
「外国によって治安の良い所もあれば、悪いところもあるし、日本人に対する艦上もいい国とあまりそうでない国とがあって、行っていて気持ちのいい国と悪い国があるので、いい国に多く行きますね。それと、ます、私の仕事として外国に、その国にいる鳥の研究者とかバードウォッチャートか、そういう人がいて世話をしてくれる、鳥の鳴き声の聞き分けをしてくれるとか、そういう人がいるところは、やっぱりよく行くんですね。というのは、ただ録音しました、何の鳥かわかりません・・・じゃぁねぇ、放送することも出来ない。」 |
松田さん |
「日本でもそういう状態に陥ってますけど。(笑)録れたのはいいけど名前がわからない・・・。」 |
蒲谷先生 |
「日本でもあるんだけど。外国だと余計・・・。うん。」 |
松田さん |
「そうですか。そうするとヨーロッパの方とか、アメリカ、オーストラリアの方がバードウォッチャーとか研究者の方、多いですから、そういう意味では行きやすかったと?」 |
蒲谷先生 |
「ただね。インドだの、ネパールだの、東南アジアだのは、指導者が少ないけれども、面白いからよく行ったし、それから、アフリカだと、鳥の声以外に獣がいたりして、ライオンの声だとか、アフリカゾウの声だとか、そういうものも録りたいし。」 |
松田さん |
「この前も飛行機の車輪が曲っちゃうような事故などありましたが、それだけ海外旅行をしてて、飛行機事故とかそういうのには?」 |
蒲谷先生 |
「運がいいんだか悪いんだか、別に落っこちもしないで、何千キロだか、何万キロだか飛行機に乗ってたんで。ただ、乗ってた飛行機のエンジンが故障したから、引き返します、なんて言うときもありました。家内が羽田で2時間も3時間も帰りを待っていて、やっとその日の12時前に帰ってきたこともあります。」 |
松田さん |
「そうですか。昔の台湾のあたりの飛行機はすごく怖い様な気がするんですが。(台湾の)飛行機は怖いって話を聞いたんですが。」 |
蒲谷先生 |
「台湾の飛行機でいちばん怖かったのは、台北の空港から、金門島という大陸に近い台湾の島があって、(中国と)砲撃戦を、大砲をお互いに撃っていたんですね。金門島に行きたいと思って、向こうの外務省みたいなところと話をしてたら、軍用機で行かれますということでね。それで、台北の軍用飛行場に行って、秤(体重計)があって、まず秤に乗せられて体重を計わけね。」 |
松田さん |
「嫌ですね。みなさんね。それね。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「それからね、どれだけ荷物を持つかって、また荷物を計って、体重と荷物の合計が何キロ、それを超えると荷物を減らされる。だから、太った人なんかで、60キロも70キロもあれば、荷物がちょっとしか持てない。」 |
松田さん |
「先生の場合は有利ですね。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「ところが、私の場合は幸に(体重が軽いから)何十キロでも持てるわけ。ね。そういう利点もたまにはにはあるわけね。(笑)」
「それで飛行機に乗るっていうんで、パラシュートを背負わされるわけね。そこに停ってた何か双発のプロペラの輸送機ね。旅客機じゃないの。軍用の飛行機ね。それに乗せられて。そうしたら、板張りのところに真ん中に、火薬だか弾丸だか箱に入ったのがロープで止めてあってね。その周りに壁に沿ってベンチみたいな木の板があって、そこに腰掛けさせられるのね。なにしろジュラルミンの板一枚で外と内とがあるわけで、ヒューヒュー、ヒューヒューね、風の音がして、どっかからすきま風が入ってくる。それで、飛び立って、ふと気が付いたら、パラシュートを背負ってるんだけど、それをどうやって開くんだか、全然説明もないのね。」 |
松田さん |
「それは、女性の方が出てきて、これをこうやってするとかって(説明してくれる)いうのは、ないんですか。軍人が出てきてっていうのも。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「そうしたらね。金門島に近づいたらね。ひょっと、窓の外見たら、波頭が見えるくらい低く飛んでるのね。」 |
松田さん |
「そりゃぁ、またなんで?」 |
蒲谷先生 |
「それで、聞いたの。随分低いじゃないかって言ったら、大陸のレーダーでね、写されるといけないから、金門島へ近づいたら、波スレスレに飛ぶんだって。これじゃぁ、ねぇ、もし落っことされた場合ね、パラシュートなんか開く隙ないと思って。(笑)だから、説明もなかったわけ。格好だけなんだね、あれ。軍用機に乗る時はパラシュートを着けないといけないって言う規則が、きっとあるんで。でも、波スレスレに飛んでてさ、100mや200mじゃぁ、パラシュート開いてる隙もないもんね。」 |
松田さん |
「それは、でも、当然、無事に着かれたんで?」 |
蒲谷先生 |
「うん、無事について。こんなことばかり話してると、他の話ができないんだけど。台湾はね、漢字の国だから。私たちの乗るジープにね、『専車』って書いてあるのね。『これからセンシャに乗ります』って言うからさ、台湾だから、金門島だからね、戦争中の国だから、いわゆる『戦車』、タンクにね、こういう鉄砲のこうなったのに、あれに乗せられるんだろうと思ったの。そうしたらね、ジープでさ。書いてあるのが『専車』なのね。それでねぇ、向こうのねぇ、小学生が、『専車』って言う車をみると、偉い人が乗っているから、小学生でも軍人でもみんな敬礼するわけね。それで、私が乗ってても敬礼するのね。それでねぇ、敬礼したら答礼しろっていうわけ。ところがねぇ、私も戦争中に育ったから、配属将校があったり、軍事教練があったりして、やってたこともあるけれども、もう大分経って忘れてしまったころだから、向こうが敬礼してもすぐに答礼できないわけよね。それでさ、もう、あんまりまごついて、向こうが敬礼しない間に、こっちが敬礼しちゃった。それで、笑われたりさ。」 |
松田さん |
「それでは、鳥の録音はできたんですか?(笑)」 |
蒲谷先生 |
「えぇっ?鳥の録音?あんまりできなかった。(笑)」
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松田さん |
「その時は無事に、(戻られたよう)ですけど。アフリカ辺りなんか行きますと、色々怖い思いなんかもしてるんじゃないかと思うんですけど。一番怖い思い出っていうのは?」 |
蒲谷先生 |
「一番怖いのはね、まあ、いろんな怖さがあるわけよね。例えば猛獣に会って怖いとか、それから、毒蛇に会って怖いとかね。それから人間関係で怖かったり。」
「毒蛇なんかは、最初奄美大島に行ったときに、毒蛇のハブがいるのね。それで、ハブの血清を持って行ったらいいなと、奄美大島の名瀬の保健所ヘ行って、こういう目的で山に入るからハブの血清を貸して下さいって言ったら、なかなか貸してくれないで、ケチだなぁと思ったんだけど、そのうちに、セットになったのを持ってきて、『これがハブの血清のセットですが、お使いになれますかねぇ』なんて言いながらね、(セットを)開けて『もしも咬まれたら傷口より心臓に近い所を、このゴムの管で縛って、傷口をこのメスでえぐって、毒と血と搾り出して、溶解液の中に乾燥血清を入れて、溶かして、それで、この注射器で何ccずつ注射しながら、一刻も早く保健所へ帰ってらっしゃい』って。ねぇ。咬まれてさぁ、傷口を自分で『ぎゅー』なんてねぇ、できませんよね。で、さぁ、今更できないから返すってことも言えないくらい、頑張っちゃったもんですからね。『ありがとうございます』って借りてさ。それで、リュックサックの一番下に入れて持って歩いて、まあ、なるべくハブに咬まれないように用心するんだなぁ、と。まあ、そんなハブの怖さね。」 |
松田さん |
「海外では、ヘビは?」 |
蒲谷先生 |
「海外はね。ヘビはね。ケニアのね、ナイロビに毒蛇の研究所があって。そこに行って、例によって『アフリカの毒蛇に咬まれたらどうしたらいいんですか?』って言ったら、『毒蛇の血清にもいろんな種類があるから、咬まれたヘビを殺して持ってこい』っていうわけね(笑)。ところがねぇ、咬んだヘビをねぇ、殺すって言ったってさぁ。棒かなんかで追っかけ回してねぇ。叩いて殺してるうちにね、毒が回ってさぁ、死んじゃうでしょうし。それも、市内にいればいいけどね。何十キロも何百キロも離れた国立公園の中で(では、間に合わないから)、あぁ、これはダメだなぁと思ったから、『血清貸してくれ』なんて言わないで諦めて、咬まれないようにしようと。」 |
松田さん |
「アフリカ辺りだと、政情不安な所なんかもあったと思うんですが、そういうところで人の怖さみたいな(ことはありませんでしたか)?」 |
蒲谷先生 |
一番ね、最初に行ったときだから、アフリカへ行ったのは何年だったかなぁ、・・・1970年。このときにアフリカに行ったときだね。『ジャンボアフリカ』と言う番組を作るために、芸術祭参加でね。」 |
松田さん |
「あ、すごいんですね!」 |
蒲谷先生 |
「ケニア、ウガンダ、タンザニアとね、東アフリカ3国を一カ月以上ね。文化放送の二人で行って、その人はアフリカの音楽とか、人間関係のものを録音する。私は鳥と獣とを録音する。そういう分担で付かず離れず、録音をやってたんだけど。一人でウガンダでエンテベ(首都)という、アフリカで一番大きいビクトリア湖のほとりにあるエンテベの植物園に、鳥の声を録音に(行こうと)。(そこに行くには)ホテルから歩いていけて。ホテルで道を教えてくれて、その通りに行ったら植物園があって、いろんな鳥がいるから、そこで録音してるうちに段々暗くなって、閉園のサイレンが鳴って、これでお仕舞だというんで、慌てて植物園を出たらあっという間に暗くなって。」 |
松田さん |
「アフリカって急に日が沈むんですよね。どういう関係でしょうかね、あっという間に暗くなって。」 |
蒲谷先生 |
「それで、ホテルにどういう風に歩いて来たのかね、全然わかんないわけね。真っ暗で。街灯なんかないし。タクシーなんて全然居ないしさ。門灯はないし。街路灯もないし。それで、こっちのほうだとろうなと思って、こっち(の肩)に集音機と三脚とくっつけてかついで、こっち(の肩)に録音機をぶら下げて、それで背中にリュックサックを背負って、一人でぽこぽこ、懐中電灯も持ってないから真っ暗な道を行って。そうしたら、向こうのほうにボヤーっと電気が見えて、『あそこで聞こう』と思って、それで、門灯の所に近づいていったら門番みたいのが居て。それで、英語でホテルの名前を言おうと思って、近づいたんだけれども。そうしたら、大分近づいたと思ったら、何だかワァワァワァワァって、その門番が言って。ひょっと見たら、剣着き鉄砲なのよね。」 |
松田さん |
「銃剣ですね。」 |
蒲谷先生 |
「小銃の先に銃剣が着いてた。それがギラギラ光ってさ。向こうの人、色が黒くて歯だけ白いのよね。歯だけがこう、グッーって見えてねぇ。恐らく『止まれ!』とかなんとか、言われたと思うのね。ところがこっちは全然通じないでしょ。」 |
松田さん |
「英語ではなかったんでしょうね。」 |
蒲谷先生 |
「英語じゃない。あれ」 |
松田さん |
「スワヒリ語かなんか」 |
蒲谷先生 |
「うん、スワヒリ語かなんか。それで、その時まで覚えてたホテルの名前を忘れちゃって。ガガーって言われて、ひょっと・・・。」 |
松田さん |
「頭真っ白んなっちゃう。わかります、わかります。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「なんていうホテルだかさ、全然忘れちゃってさぁ。それで、もうホント困っちゃってね。もうしょうがないから、どっかにホテルのマッチがあったなぁと思って、あちこちポケット探して。それでマッチが出てきて。」 |
松田さん |
「危ないですよ。ポケット探すと銃かなんか出すんじゃないかと(誤解されますよ)。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「それで、このホテルに帰りたいんだと言ったら、やっとわかってくれて、こう行ってこう行けって(教えてくれて)ね。それでまぁ、命拾いして帰ってきてホテルでその話したら、そこはねぇ、アミン大統領というウガンダの大統領の別荘があるところで、『あんたは幸に、今、アミン大統領がこの別荘に来てないからいいけど、来てたらワッと殺られてただろう。そんなわけのわからない外国人が別荘に近づいたら、有無を言わさず殺されちゃうよ』と。それでなくてもアミン大統領ってのはねぇ、気にくわない人間はみんな殺して川へ投げ込んで、その川が赤く染まったなんていうところで、どこの国からも相手にされない大統領なんだからって。あー、よかったなぁ、と思って。そうしたらじきにそのアミン大統領は追放されて。」 |
松田さん |
「そうですね。侵略してね。最後はどうしたんですかね。病気かなんかでお亡くなりになったのか・・・。」 |
蒲谷先生 |
「ねえ。それでやっと命拾いしたと。」 |
松田さん |
「文化放送の人とか、助けに来てくれないんですか?」 |
蒲谷先生 |
「だって、一人だもの。彼らは人間を取材してたから。私は鳥と獣を専門だから。」 |
松田さん |
「鳥の声の(録音の)時って、やっぱり一人なんですよね。他の人居ると録れないですからね。」
「これだけ御旅行してると、病気とか?至って健康で途中で病気で倒れるとか、伝染病に罹るとか、コレラになるとかそういうのはなかったんですか?」 |
蒲谷先生 |
「アフリカのウガンダにね。マーチソン・フォールズ国立公園というね。今はねなんて言ったか、カバレガ?カバレガ国立公園という、ナイル河の上流で。そこへ行ったときは観光タクシーで4日間位、車と運転手と借りて行ったわけね。首都カンパラから何百キロも離れているところに。それで泊まって録音をしたりなんかして。そして或るとき、チクッとするのね。集音機を持ってる手の甲がね。で、ひょいと見たらね。ツェツェバエが止まってるのね。ピシャっと叩いて潰して殺したんだけど、その晩ねぇ、ツェツェバエに咬まれると、高熱を発して大変なことになるってね。だからねぇ、こんなねぇアフリカのまん真ん中で、誰も知らないところで一人で高熱を発してね、お終いになるのかなぁ、と思って、ホントねぇ、生きた心地もしなかったねぇ。」 |
松田さん |
「大丈夫だったんですか?病気は出なかったんですか?」 |
蒲谷先生 |
「聞いたらね、ツェツェバエの全部が病原体を持っているわけではなくて、持ってるツェツェバエと持ってないのといるわけね。それで、幸に、私を咬んだのは持ってないほうだったの。」 |
松田さん |
「どれくらいの確率なんでしょうね。僕の聞いているかぎりでは、かなりの確率で。刺されたらもう、完全に熱病になると聞いてますけど。」 |
蒲谷先生 |
「それで、それからツェツェバエのことが心配になって、いろんな人に聞いたらね。カバレガ国立公園の辺りはね、ツェツェバエの生息地で。確かにね、そこから出るときにね、保健所みたいな人が来てね、シューっと、車の中を、トランクからなにから全部ね、殺虫剤かけて、ツェツェバエが他(の土地に)に出ないように、そういうことをしてるところだったのでね。」 |
松田さん |
「じゃあ、そんなに病気そのものでは、御苦労されたことは、もう?あんまりお話伺ったことないですね。お腹壊したりとか。」 |
蒲谷先生 |
「割合ね。こんなチビのねぇ、痩せっぽちだけどね、外国で熱が出てダウンしたとか、あるいは大怪我をして医者にかかったとか、幸にないのね。」 |
松田さん |
「ないですね。お話を今迄聞いてて、出てきませんから。今日はあるかなぁと思って、お訊ねしたんですけど。それはもう、なんというか幸というか、いいですね。」
「先生、やっぱり、これだけ全部回って、さっきのお話の中にも出てきたんですけど、結構、居候をされるんですよね。(笑)これがねぇ、今の若い人には、僕も結構国内はそういう傾向があるんですけど、先生は国際的にね、何処行っても、あまり高級ホテル、リッツとかね、そういうところに泊まるんじゃなくて、地元の方をお訪ねになって、そこに何日も居てしまうという。このコツを伺っておくと、後でみなさんね(参考になるんじゃないかと)。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「鳥の仲間ってね、割合ね、そういう点で、親しみがあるのね。例えば、デンマークのカール・ワイスマンさんね。2〜3回文通したのね。『今度ヨーロッパへ行くから、色々教えて下さい』って。『こういう鳥が居ますか』とかね。そういう文通を2〜3回やって、『いついつの何時の飛行機でイギリスからコペンハーゲンへ行きます』と手紙を出したの。それで空港に着いたらね。ワイスマンさんが空港へ迎えに来て、『どこへ泊まるんだ?』って言うからね、東京で予約したコペンハーゲンのトラフォルテ?、『三羽のハヤブサ』とかいうね。」 |
松田さん |
「鳥(の名前がついてるところ)で選んでますね。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「そこは、凄く高級ホテルなの。それで、そんな高いところへ泊まらないでね、家へ泊まれっていうのね、彼がね。それで一緒に行って、彼がホテルでキャンセルしてくれて、50キロくらい北のカール・ワイスマンさんのお宅へ連れていってくれて、そこに一週間位居候して。ところがねぇ、行ってみたらねぇ、部屋の数がね、10位あってさ。庭にねぇ、小川が流れていて、ボート場になるような大きな池があって。『夕方の8時30分になると、あそこのところでスラッシュ・ナイチンゲールが鳴くから』なんていうね。そういう豪華なところでさ。『私が一週間や十日、居候になっても、あぁ、この家なら大丈夫だなぁ』って、思うくらいでの家でさ。だからそういう所が多いのよ。」 |
松田さん |
「先生、フィリピンでもそういうことしてなかったですか?」 |
蒲谷先生 |
「あぁ、フィリピンはね、ミンダナオの島でね。あそこは物騒な島でね。他(の島々)はキリスト教なんだけども、あそこは回教徒が多いしね。ミンダナオ大学のサン・ゲラ(?不明)さんという人のお家に泊めてもらったのね。寝間着がね、私はパジャマ持って行ったんだけど、『フィリピンの人はパジャマの替わりにこういうのを着るんだから、これをお前にやる。』って、ちょうどね、鯉の吹き流しみたいなね。四角い布を半分に折って、片方だけずーっと縫ってね。封筒みたいの。そこに入ってね、寝るんだって。それで、『これやるから。これで寝ろ』ていうからさ。寝たんだけどねぇ、なんかねぇ、なんかこう、手足が伸びないしね。とっても寝苦しかったなぁ。」 |
松田さん |
「そこは何日くらい居候したんですか?」 |
蒲谷先生 |
「そこも一週間か十日居てね。それで、山のロッジへ行くっていうんで。そうすると彼はピストル持ってね、これで護衛するっていうのね。山へ行くと山賊が出るって。ギャングが出るって言ってね。だけどねぇ、幸に出なかったんだけど、おんぼろな小屋でさ、寝ながらお月見ができるような屋根が(壊れてて)ね、それで、帰りにね、ダンダーンなんてさ、彼は空に向けて実弾を発射して。あとの、他の鳥がびっくりしたろうと思って。ねぇ。」
「それで、その部落のね、いわゆる村長さん?」 |
松田さん |
「長老ですね」 |
蒲谷先生 |
「(その人)がね。日本から珍しいお客が来たって言うんで、夕食を御馳走するって。」 |
松田さん |
「日本人はあんまり行かなかったですか?当時、ミンダナオに。」 |
蒲谷先生 |
「行かないよ。まして、だって、小さな村だもの。そんなとこ、日本人行きゃあしないなぁ。それで、村長さんのところに行って、色々話をして。その頃ね、日本が高度成長の時期でね。『高度成長ってのはどうなんだ』なんて聞くから、そんなの分かりっこないやねぇ。そんなさぁ、英語もろくに出来ないのが、高度成長なんかについて話なんかできやしないし。」
「そしたらねぇ、そのうち、『お前、ワイフが何人居るか?』って聞くのよね。『一人だ』って言ったのよね。ここにいるだけでさぁ。そしたらね、『俺は3人居る』って言うのね、村長が。それで、見せてくれとも言わないのに3人出してさ、それで、第一夫人、第2夫人、第3夫人って、大威張りなのね。それでさぁ、今度聞かれたらねぇ、4人て言おうと思ってさ。もう、決めたわけね。それからね、さっきのツェツェバエのマーチソン・フォールズ国立公園へ行ったときの運転手がね、帰りにね、車の中で、なにしろ二人っきりだから話がなくて。そうしたら、『奥さん何人居るか?』って言うのね。またさ、つい、フィリピンの事を忘れて、一人だって言ったら、『俺は二人居る』ってね。それで、何の用もないのにね、ホテルへ行く前に自分の家へ連れていって、それでね、第一夫人、第二夫人って、見せびらかして。だけどねぇ、全然羨しいと思わなかったな。」 |
松田さん |
「顔を見てですか?(笑)」 |
蒲谷先生 |
「あんな奥さんねぇ、怖くて。一晩だって居られないなっと思ったな。」 |
松田さん |
「私も一人で沢山ですね。(笑)えー、もしこれから、必要なとき、どなたか、並べて、外国から今度はイスラム教の(お客が来たとき)ね、やりましょう。(笑)」 |
蒲谷先生 |
「たまにはねぇ、三人、四人と居ると。(笑)でも、その後、もう奥さん何人居るかなんて聞かれたことないんだけど。」 |
松田さん |
「先生、そろそろ時間が無くなってきたんですが、これから、もし海外へ鳥の声の取材に行く場合の注意とか、コツとかを伺えたらと思うんですけど。」 |
蒲谷先生 |
「まずね、一番最初に、行く先の国が決まったら、行く先の国の原色のハンディな鳥の図鑑、今、いろんなところの(図鑑)が出てるから、それをまず手に入れること。この原色図鑑がなくて、何にもない外国へ行っても、第一、鳥を見てもなんの鳥か分からないし、ノイローゼになってしまうんで、今はいろんなところで手に入るから、こういう図鑑を手に入れること。それから、できれば、その国のバードウォッチャーとか、あるいは、鳥の研究者とか、そういう人と連絡して、なるべく世話をしてもらう。」
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松田さん |
「上手くいったら居候すると。」 |
蒲谷先生 |
「うん、そうそう。(笑)あのね、居候するとね、ホテル代がいらないことの他に、いろんな話をね(して貰える)、例えば、この本を見ながら、この鳥はどこにいるかとか、極簡単な言葉でいろいろ通じるんでね。向こうも、日本人(は)あまり言葉が分からないな、と思うから、簡単な言葉で説明してくれる。で、鳥のことも分かるし、いろんなことも分かるし。それから、アメリカなんかだとカリフォルニアのバードウォッチャーのお嬢さんが、小学校の2〜3年くらいかな、ちっちゃなお嬢さんだけど、一生懸命サービスして、テレビを見せてくれたりね、体操して見せてくれたりさ、いろんなことをやってくれる。だから、是非そういうコネクションをつけること。」
「それから、できればね、こういう鳥の図鑑に、日本の、和名をつける。私はね、大体もって歩く図鑑には、全部和名をつけてるんですよね。そうするとどういう仲間かがわかる。モッキンバードっていう風にだけ覚えるよりも、マネシツグミ、ものまねどりとかと言って覚えたほうが、ツグミの仲間だな、ものまねをするんだな、ってことが和名からわかる。」
「それから、まず、治安がいいこと。やっぱりね、あんまり治安の悪い国へ鳥を見に行っても面白くないし。それと、近ごろはテレビでいろんな外国のことをやってますから。シルクロードなども、日本人は随分憧れるけれども、鳥を見に行くには、ああいう砂漠みたいなところはあんまり良くないやね。」 |
松田さん |
「(テレビの画面を)つい見ちゃいますよね、(鳥が)居るかどうかね。」 |
蒲谷先生 |
「あんまり沢山鳥がいるとは思わないから、鳥がいるのはやっぱり、せいぜいサバンナぐらいなところで。あとは森林があるとか、湖があるとか、山があるとか、そういうところに行く。」 |
松田さん |
「機材とかはどうですか?一番心配なのは電圧とか、バッテリーの問題とかっていうのが気になりますけど、海外旅行して今迄先生はどうされましたか?」 |
蒲谷先生 |
「一番、なるべく軽い小型軽量がいいと思うのね。今はいろいろね、あるし。」 |
松田さん |
「今は、このぐらい(の大きさの小型機)で済んでますからね。」 |
蒲谷先生 |
「私の頃は、もう、こんな大きくてさ。バッテリーも単三12本なの。それが2〜3時間でダメになると、それこそ機関銃の弾の様に、バラバラって12本出して、また、12本詰めるの。そうするとねぇ、税関がうるさいわけよね。まあ、国によるけれども、インドなんかもうるさかったし、アフリカもうるさかったし、ブラジルなんかも、ひどかったなぁ。」 |
松田さん |
「そうですか。それはやっぱり苦労されるわけですね。通関関係でね。」 |
蒲谷先生 |
「通関するのにね、なるべく小型軽量で、バッテリーも少しで済むような。ただ、充電するときは100ボルトと220かね、40あるでしょ、向こうはね。国が多いから。だから、充電機に気をつける。」 |
松田さん |
「先生、やっぱりああいう変圧器っていうんですか?ああいうのも持って、いつも持ってかれてたわけですか。」 |
蒲谷先生 |
「充電器も。」 |
松田さん |
「相当な量になりますね。先生よりも重くなるんじゃないですか?」 |
蒲谷先生 |
「だからね、外国の税関で、よく『お前は体がちっちゃいのに荷物が沢山あるな』って言われるのよね。それ、やなのね。なんかね、向こうは税金取りたいわけよ。それからね、まだ国によってはね、スパイじゃないかっていう。パラボラなんか見たことない国もあるわけね。それで、こんなお椀みたいなの持って、録音機持ってるとね。」 |
松田さん |
「そういう場合にと、なんか証明書ってのが?」 |
蒲谷先生 |
「それでね、しょうがないからね、外国行くときは、イギリスの王立鳥類学会の出してる本があるわけね。それがね、世界の鳥の鳴き声の録音をしてる人間の特集で、イギリス人からアメリカ人から、幸に日本人の私まで写真があって、こうやって録音してるところの写真が、その本に載ってるのね。それで英語で書いてあるし。それを持っていって、『これはなんだ?!』って言われたときに、説明するのにそれを見せて、これがこれなんだとかね、やって、納得してもらう。」 |
松田さん |
「まずはイギリスの雑誌に載るようにならないといけないですね。(笑)我々はちょっとまだ・・・。やっぱり、そういう御苦労の結果、今のですね・・・。ええ。」
「外国の鳥は、合計すると、何種類、1,000種位は(ご覧になっているでしょうか)。」 |
蒲谷先生 |
「そのくらいはあるでしょうね。」 |
松田さん |
「あるでしょうね。多分、日本で一番鳥を見てる方じゃないかなと。世界中の鳥というレベルでいきましたら。時間もプラスしたらばですね、右も左もでる人がいないんじゃないかっていうくらい鳥を見てるんじゃないかなかって。」 |
蒲谷先生 |
「でもね、数を多く見てる人と(比べると)、私みたいに同じ国へ4回も5回も、季節を変え場所を変え行くって言うのはね、数を増やすには損なのよ。それがあったら、いろんな国へ行ったほうが数は増える。だけど夏はこうだったけど、冬はどうだろうとか、こっちの方はこういう鳴き声だけど、反対側の方はどういう鳴き声か、なんていうんで、何度も行くしね。だから、アラスカの同じ島へ4回も5回も行ってる。」 |
松田さん |
「でも、そういうほうが、発見がありそうでいいですね。録音は勿論されるんでしょうけど、鳥の美しさだとか、声の素晴らしささとかというのに出会うんではないかと思います。」
「本当に長い間、一時間近くなりまして、お話を伺いまして、ありがとうございました。なんか、あっという間でしたね。まだ世界半周くらいしかないですが。実は先生とお話していますと、まだまだ、この手のネタはあるんですけど。今日、話してて初めて聞く話ってのありますし。また機会がありましたら先生に来ていただいて、こういった話を聞いて、僕らは日光乃至、当然海外でバードウオッチングされる方もあると思いますので、参考になったのではないかと思います。本当に、先生、今日はありがとうございました。 |
2時間があっという間に過ぎ、世界中の鳴鳥の声と、海外旅行が珍しかったころのお話を聞かせていただき、時間と空間を飛び越えた世界旅行を楽しませていただきました。是非また機会を作って、取材の時のエピソードを聞かせていただきたいと思いました。
休憩のあと、引き続いて日光野鳥研究会の第7期の総会が行われました。会計報告や、来年度の予定が話し合われました。来年の観察会予定も決まり、日光の様々な表情に接する機会となる事と思います。