食欲

野鳥紀行の最初のページ

 日光の市内を流れる大谷川。神橋の前あたりでは渓流だが、東武日光駅の裏、霧降橋あたりまでくると川幅も広くなりヨシ原が川岸に繁茂している。

 今年の日光の正月は、穏やかな日が続いた。東京など関東平野では、いくら暖かいといえ名物のカラッ風が吹いて寒い。しかし、風のない山間ではかえって暖かい日和になる。珍しくカミさんもいっしょに、大谷川の堰堤に腰をおろし日向ぼっこをしていた。目の前のヨシ原では、ホオジロの群れや高山から降りてきたカヤクグリといった鳥たちが飛び交っている。
 このヨシの中を黒い大きな動物が移動していく。イヌか?、日光ではサルの可能性もある。キツネにしては黒い。タヌキだ。大きなタヌキだ。あっという間に、身を翻えし草むらの中に姿を消していった。カミさんは、奥にもう1頭黒い影が動いていったという。しばらく見ていると、同じコースを先ほどのタヌキより小型のものがゆっくりと移動していった。幼いだけに警戒心がないのか今度は、よく見えた。
 野生のタヌキを見たのは2度目、それも夜行性の動物を昼間見るのは珍しいと興奮している私に妻は「狸汁してしまいたいくらい立派なタヌキね。」との感想。「おいおい、野生の生き物を見て食欲を出すなよ。」と言ったものの野生の生き物を見て、食欲を感じるか感じないかの違いについて考えるきかっけになった。

 私自身「野生生物を見て食欲を感じたことはない。」と断言できない。公園の池に集まったカモを見て「美味しそうだ。」と言っていたどこかの親父は、ハンターだった。私はカモには食欲を感じない。カモはバードウォッチングの対象、食べ物ではない。しかし、同じように餌によって来た池のコイに「太って鯉こくにしたら美味しそう。」と、つぶやいたことがある。この違いはなんだろうか。
 また、アグネス・チャンが日本に来たとき、駅に群れているドバトの群れを見て、思わず涎を流したと語っていた。ハトは中国料理のポピュラーな素材なのだ。
 日本人の誰も駅のハトを見て、食欲をそそられることはないだろう。では、クジラはどうだ。高知県や小笠原、沖縄でホエール・ウォッチングが盛んだが、アメリカで始まったこのホビー。日本人の多くはまだ食欲を感じる人が多いのではないだろうか。
 なにを間違ったか、ホエールウォッチングのツアーに紛れ込んだ親父が、酒を飲んで顔を真っ赤にてクジラを見ながら「うまそうなクジラだな。とくにあの鰭がうまいだよな。」と言って皆のひんしゅくをかっている風景をつい想像してしまう。
 野生生物を見て食欲を感じるかどうかは、文明国かどうかが、あるだろう。アグネス・チャンの例ではないが料理は文化だから、文化の違いもあり一概には、いえないことはわかっている。「野生生物を見て食欲を感じるな。食べるのは家畜のだけ。」というというのも寂しいし、西洋文明の押しつけのように感じてしまう。

 もう一つ話がある。この間、TVの取材で軽井沢にいったおり、同行したディレクターのS氏は木曽の生まれ。私の前だというのに「秋になるとツグミが美味しい。」から始まって、入院したときにもらったお見舞いのハチの子は、もったいなくて食べることができなかった。大切にとっておいて退院後、家族と食べたら父親から偉いと誉められたなどなど、上野から軽井沢までえんえんと聞かされた。はじめは、なにかタブーめいた話で小声だったS氏だったが、ビールもまわり思い出話に花が咲くとともに声も大きくなった。はじめは野鳥を食べるなんて、とんでもない奴だと思っていた。しかし、子どもの頃、木曽の山の中でいろいろな生き物と遊んだS氏の姿が生き生きと語られると思わず身を乗り出して聞き入ってしまった。だから、上野から軽井沢まであっという間だった。

 絶滅に瀕している野生生物の多くは、食べられてしまったものが多い。ツルやトキは、その代表だ。ツグミをのカスミ網による密猟は今だなくならない。しかし、もっと大きな自然破壊は、大規模な農薬の汚染であったり、森林の伐採、海岸の埋め立てなどだ。さらに、最近ではフロンによるオゾン層の破壊などもあげられる。近世に入っての日本の野生生物の減少は、食べることを対象としての狩猟をきかっけであることは間違いはないが、これに追い打ちをかけたのは、汚染と開発である。
 食べるために、逆に資源として大切に保護されて例はたくさんある。苦労してして取った獲物を家族に分けたS氏の話は印象的だった。じかに触れればそのありがたみがわかる。しかし、大規模な汚染や開発は知らないところで進み、気がつくと私たちの体さえもむしばんでいる。山菜を根こそぎ持っていってしまう例や大規模漁法の日本の漁業の現実など問題は多く、自然の恵みを受けることがすべて良いというわけではない。しかし、なんとなくS氏の子どもの頃の生活の方が、正しい気がしてしまうのは私だけだろうか。

松田道生
1993年3月 「理科の教育」日本理科教育学会

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