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写真提供:(有)バード・フォト・アーカイブス(無断複製・転載禁止)
12月9日(日)
野鳥研の12月のイベントは、鳥に関する話題について講師の方を御招きして、講演会を行っている。今回は、「モノクロ写真の力--東京湾にガンがいた頃--」と題し、モノクロ写真の発掘・保存を行っている(有)バード・フォト・アーカイブスの塚本洋三氏を御招きして、モノクロ写真の魅力を語っていただいた。5月に東京港野鳥公園で行われた東京バードフェスティバル2007でも塚本さんの講演会があった。1950年代から現代までの、新浜を中心とする東京湾の劇的な変化をたくさんのモノクロ写真で見せていただいた。遠浅の海に多くの水鳥が翼を休める風景は、「これ、戦前?!」という感じで、戦後10数年を経た1950〜1960年代の写真とは思えなかった。そのような衝撃的な「発見」をさせてくれたモノクロ写真に関するお話と聞いて、ほとんど年に一回しか出ていかない幽霊会員の私も、参加させてもらうことにした。
当日は天候に恵まれ、会員20名、会員外も8名の多数の参加者があった。顧問の松田さんから塚本さんが紹介された。松田さんのお話によると、1965年に高校生だった松田さんが日本野鳥の会に入り東京支部の探鳥会に参加しはじめた頃、塚本さんというすごい人がアメリカに行っているということを知ったという。湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した頃で、鳥の世界の頭脳流出だと思われていたそうだ。その後、帰国なさった塚本さんと日本野鳥の会で一緒に仕事をすることもあったそうだが、塚本さんが優れた写真を自分でも撮っていること、写真に造詣が深いことを最近になるまで知らなかったという。
今回は二部構成で、まず塚本さんの講演「モノクロ写真の力--東京湾にガンがいた頃--」、休憩を挟んで、野鳥録音の第一人者で2007年1月に亡くなられた蒲谷鶴彦先生を偲ぶ「天国の蒲谷鶴彦さんと野鳥の声を聞く会」で上映された、「日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく」の再演が行われた。蒲谷先生の御家族も御出席いただき、最後まで通してご覧いただくことができた。
塚本さんはあまり日光に来られたことがないそうだが、いくつか印象的な風景を覚えているという。光徳牧場から鬼怒川に抜ける未舗装の峠道をドライブしたこと、湯ノ湖の湖面に満天の星が写り、白鳥(座)が飛んでいるように見えたこと。いろは坂でサルに若葉マークを取られそうになったことなど。華厳の滝にハヤブサが巣を作ったニュースを聞いて、誰か写真を撮った人がいないかと期待して来られたとのことだった。残念ながら写真を撮った人も居ずに、ハヤブサもカラスに邪魔されて今年の繁殖は失敗したそうだが、塚本さんは「ハヤブサのような貴重な鳥。想像するに素晴しい景色だったろう。写真撮りたいなぁ。華厳の滝をバックにダイブするハヤブサ、私だったらそんな構図を狙いたい。ちっちゃくてもいいんですよ。結果はどうあれ、(イメージしてた構図で写真が撮れるように)頑張る。これが私の写真を撮る楽しみのスタートです。」と言う。「今の様にデジカメでバシャバシャ、ろくに対象を見るでもなくカメラが勝手に撮るような撮り方は理解出来ないです。・・・というのもその昔は大変だったんです、写真撮るのも。だから、まぁ、それはジイさんの昔話で、今は今様のデジカメを楽しむ時代となっちゃうんですけど、写真を撮る楽しみっていうのはデジカメでもやっぱり、絵コンテを描きながら撮る、そういう撮り方が私は好きです。」
「カラー全盛の今、なぜモノクロ写真なのか、モノクロ写真は実はこんなに力持ちなんだ、というところをお楽しみいただきたい」ということで、古いモノクロ写真のスライドショーが始まった。
<当日のスライド>
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写真提供:(有)バード・フォト・アーカイブス(無断複製・転載禁止) |
「まずは野鳥を撮る昔話、昔はこんなに大変だったんだよ、という話です。」フィールドガイドでもお馴染みの高野伸二氏も写真を撮り始めた頃は、3.9kgもあるカメラ本体に300mmの望遠レンズを手製の木の台に取り付けた機材を使っていた。鳥に近づくために風呂敷を被ってみたり匍匐前進をしてみたり、苦労していた。
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写真提供:(有)バード・フォト・アーカイブス(無断複製・転載禁止)
様々な苦心の末、1974年に自然の樹洞で営巣するシマフクロウの写真を撮った。撮影して10年後に高野氏は亡くなり、さらに23年後、バーダーという雑誌に初めて紹介されるまで、33年間その写真は誰にも見てもらえなかった。公表することによってカメラマンが押しかけ、シマフクロウの営巣に悪影響を与えることを慮ってのことであったそうである。やたらに写真が撮れればいいということではなく、よい写真が撮れても保護のために敢えて公表しなかったことは高野氏の素晴しい人柄を表している。
当時の探鳥会では望遠レンズはもとよりカメラを持っている人すら少なく、機材を自作する人も少なくなかった。当時は自分で工夫する楽しみがあった。不便な重い機材を、車がないのでみんな持って歩いていた。135mm、300mmから600mmと、長いレンズを求めているうちにデジタルカメラの時代になり、さらにスコープにデジカメをつけて「デジスコ」の時代になった。
ここで、セイタカシギの営巣の写真が紹介された。「実はウチのカミさんが、生れて初めて鳥の写真を撮って、最旧式のスコープに掌に乗るようなデジカメで、こんな写真が撮れちゃう。写っているのはセイタカシギ。私が新浜であれほど鳥を見ててセイタカシギなんて珍鳥が見られると思ってなかったんですよね。それが今では、行けば見られ写真が撮れる鳥になっちゃいましたね。」次に携帯電話のカメラにスコープを付けて撮られたエゾビタキの写真を見せて、「変りましたよね。誰にでも野鳥の写真が撮れる、大変な時代になっちゃった。もう写真の神様なんかいらない。そういう時代・・・。」
時代はカラー全盛。「でも、カラーもいいけどねぇ・・・。」そこで、カラーvsモノクロ対決。キョクアジサシのカラー写真をモノクロにしてみる。「悪くないですね。っていうより、いいですね。色の情報は全くないけど、それだけに見る人を引き付ける微妙な白と黒の色合い、なかなか味があるなあ、物語が生まれてきそうな。そういった白黒のよさがありますね。」モノクロ写真はインテリにファンが多いと写真学会の講師の先生が言っていたそうだ。「でも、(白黒とカラーと)どっちかって訳にいかないでしょうね。ただね、モノクロを知らないと損ですよね。モノクロも知っていると世界が広がりますよね。」時間が経ってモノクロのキョクアジサシとカラーのキョクアジサシとどちらを思い起すか。モノクロの方が飽きが来ないことを感じることができれば私の思うツボなのです。
そんなモノクロ写真をよく味わうと、「モノクロ写真は力持ちだ!」ということがわかる。
モノクロ写真には力がある。どんな力かというと・・・。
1、一枚の名作としての力
日本の生態写真の草分け、塚本さんの写真の原点である、下村兼史氏のツツドリに給餌するセンダイムシクイの写真を例にあげて、古い機材で絶妙なタイミングで瞬間を切り取る神業。こういう写真は、モノクロ文化遺産として後世にキチンと残して行かなくてはならない。
2、自然史の記録として、歴史を語る生き証人としての力
1976年、日本で最初に記録されたセグロサバクビタキ。黒い喉、背中の濃い部分、尾のパターン。特徴が余すところ無く捉えられている。また、古い時代の探鳥会のスナップに写る当時の参加者の服装や、燧ケ岳の木道が整備される前の風景、そういった歴史的な風景を、モノクロ写真は語ることができる。天塩川のカラス除けの写真を良く見ると、吊るされているのはカラスではなくクマゲラだった、などという発見もある。
3、将来、価値判断できる資料としての力
将来の自然の価値判断の基準をモノクロ写真が示してくれる。埋め立て途中の谷津干潟に立てられた看板を写した一枚には「谷津干潟を自然教育園として保護することを宣言する」と書かれている。NGOの人々のそのような熱い思いで守られた谷津干潟は、しかし、コンクリートで囲まれたプールのような姿になってしまった。「北海道の人を谷津干潟に案内したら、干潟って海が見えないんですかと言われて、あっ!と思ったんですよね。」昔を知らない人は、二本の水路でやっと海に繋がっている谷津干潟をみて、干潟っていうのはこういうものかと思ってしまうだろう。谷津干潟しか知らない世代が育っていってしまったら、これが干潟かと思われてたまるか!というときに、谷津干潟の昔の写真を見せると、干潟というものはこういうものだと、わからせることができる。「おーい、干潟ってのは、こうだぞ、と。これは、どんなに説明しても、この一枚の写真ほど強力に干潟を物語るものはないと思うんですね。そういったモノクロ写真の力っていうのは、捨て難いと思うんです。」
4、環境を守る説得力
ある科学専門誌の論文に、1880年から2004年までの平均気温がプロットされている。それによると、段々と気温が上昇していることがわかる。平均気温の上昇を示す花の開花時期などの詳細なデータを提示されてもピンとこないが、100年近く前の同じ季節の写真が残っていると、非常にわかりやすい。例えばアメリカのマサチュ−セッツ州で1868年の2月〜5月の平均気温が1.9℃で、その年の5月30日に撮った写真は落葉樹はまだ裸だった。2005年は平均4.7度になり、同じ場所で同じ日に撮影した2005年の写真では植物の葉が繁茂している。同じ時期の気温上昇が、古い写真と対比することによって視覚的にわかる。データにプラスしてモノクロ写真があると、「モノを言いますね」「難しい論文はわからないけれど、写真を見せられちゃうと(地球温暖化が進行して)大変だとわかる。温暖化をなんとかしなきゃいけないと思いますね。」
このようにモノクロ写真には力がある。これからは、カラー写真も同じような役割を持つようになる。
そこで、・・・
必ずデータを記録しておいて欲しいという。そのデータが説得力を強めるものであるからだ。
モノクロ写真は力持ち。その証拠を、塚本さんが長年見続けてきた新浜の変化をつづったスライドショーで示してくださった。タイトルは「東京湾にガンがいた頃(変りゆく千葉県新浜)」。
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1950年代、塚本さんが通った、新浜の「カコミ」から「丸浜の角」は、遠浅の干潟に多くのシギ・チドリが渡ってきていたという。マガンも数百羽が越冬していた。1940年代にはサカツラガンなども見られたそうである。1957〜58年の冬には、ハクガンも1羽見られた。
だが、1950年代後半からマガンはどんどん減少し、1963年〜64年の冬が初認から終認まで見られた最後の年となった。1965年にかけての冬には数例が目撃されるにとどまり、東京湾におけるガンの定期的な渡りは終わってしまった。1965年〜66年の冬にはガンは飛来せず、1967年1月8日、19羽の一群がたまたま見られたことがあったが、それが東京湾で観察された最後の群れになった。
1969年に一時帰国した塚本さんが目にしたのは、あまりに変ってしまった風景だった。「ガンが住める訳ないです。見て下さい。カコミと丸浜の間、1969年に戻ってきた時に、(35mmの狭い画角の写真を繋げて)パノラマにしたてた写真をご覧下さい。それはそれは変ってしまっていて、唖然、呆然、愕然ですね。一望の埋め立てられた荒れ地になっている。これでガンが降りて餌を摂ってくれって言っても無理ですよ。緑の田んぼ、蓮田はどっか行っちゃってる。小川はない。点在してた池もない。オオヨシキリのさえずりもなければ、ヨシゴイの飛ぶ姿もない。こんなになっちゃったんですよ。7年ぶりに訪れてこの姿ですから、ホントに私は驚きました。」「私たちが何百回となく歩いた堤防がこれです。新しい堤防が嵩上げされて、まもなく礎石になってしまう。こんな景色を目の当たりにしたわけです。カコミ(の写真)ですね。重機が入ってこの有り様。東京湾の遠くまで浅い海、どこまでも広がって、歩いてアメリカまで行けるんじゃないかと冗談言ったぐらい広かった干潟。これが埋め立て工事でずたずたになって、本当に瀕死の海と言った有り様でした。」「丸浜の養魚場。30ヘクタールもあって、素晴しいバードウォッチングスポットでしたが、松は立ち枯れ、葦原は無くなり、水面は澱んでいる。カイツブリの鳴き声すらしない。そんな有り様でした。」
1969年
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1969年のパノラマ写真と、1950〜1960年代の東京湾にガンがいたころの新浜の同じ方角を写した写真を比較してみた。「1964年に開発が始まる前の新浜の原風景は、漁師がベカ舟を滑らして、鳥居をくぐり、沖の海苔ひびへと向い、広い干潟の上をマガンが飛んでいる。この景色ですね。東京湾にガンがいた頃です・・・。」
マガンがいた頃の新浜の干潟風景
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1950年代と1970年代の地図を比べて見ると、1969年に高架地下鉄の東西線が通り、カコミの沖には広大な埋め立て地が出現した。さらにその後の写真を見ると、東西線に並行して湾岸道路、国道357号線、JR京葉線ができた。カコミはすっかり人工環境に飲み込まれているのがわかる。1983年にはディズニーランドができた。
鴨場の周辺は、新浜を守る会等の活動により、行徳近郊緑地特別保全地区に指定され、83ヘクタールがオアシスの様に残されてはいるが、周りの市街地に飲み込まれてしまっている。1969年のと写真2003年の写真、同じ堤防から沖を見た写真を比べると、劇的な変化が実感される。
上段:2003年、下段:1969年
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「ご覧いただいたように、私の目の黒いうちですよね、この変化。20年、30年、40年のスパンであれだけの変化が起きた。だけど、古いモノクロ写真を見なかったら、私ですら、その昔そんな(風景)だったのと、思いますよね。そういうときにやっぱりモノクロ写真が残っていると、写真は古いけど、モノクロ写真ならではが語るものがある。それを、これから先、私たちの未来の世代に生かさなきゃいけないと思います。」
「あの時代、高度経済成長期の時代っていうのは、確かに経済発展を私たちは願いましたよね。生活水準の向上すればいいなと思いましたよね、確かに。生活も便利にもなった。期せず手に入れたじゃないですか。だけど、変るものも変ってしまった。自然が無くなりました。経済発展を果たした、生活は便利になった、おかげさまで。ホントにおかげさまで、と思いますよ。しかし、私たちの過去はなにかを間違えた。だって、私たちの生活に、本当に大事ななにかを、お金で買えないものを、私たちが作り出せないものを・・・、そういうものを失ってしまいましたよね。」
「(そこで、)これからはやっぱり、過去の経験を生かすというと普通の言い方ですけれど、時代が変わっても変らないもの、変えてはいけないもの、失ってはいけないものと、変えなきゃいけないものとの違いをキチっと学ばなきゃいけないかな・・・、つくづくそう思いますね。」
「これからの世代、先ほどの谷津干潟じゃないけれども、今の中学生はディズニーランドしか知らないんですよね。あそこは干潟だったよ、と言えば、今なら分かるかも知れない。もっと後の世代には解らないんじゃないですか。こういう尺度で自分達の生活なり、開発なりを考えていったら、世の中もっとひん曲がって行きますよね。それだけに、昔の姿をそのまま伝えるもの、例えばモノクロ写真。そういったものを、白黒は汚いとか言わないで、大事にしていきましょう。」
「つくづくそんな気持ちで、実は、そんな気持ちが強くて、三年半前、バード・フォト・アーカイブスという会社を設立して、何とかして、このカラー全盛の中に埋もれて、絶滅の危機に瀕しているモノクロ写真を集めて、次代に繋いで行こうと思い立ちまして。誰かやってくれりゃぁ、私、こんなことしなくて良かったですけど、誰もやってくれないんで、自然・野鳥・人、そのへんを軸に写真を集はじめました。」
「ということで、みなさんのアルバムに古い写真が残っていたら、是非、御提供いただきたい。(でも)ギャラは払えない。払わない。えばっちゃいけないですけどね(笑)。きちっと次代に繋ぐ、クレジットは入れさせていただく。なおかつ、御提供いただいた写真を使わせていただく。で、がっぽり稼いで純益は自然守る活動をしている方々に全部還元すると、そういう意気込みなんですね。そういう意気込みでバード・フォト・アーカイブス、これからもがんばって行きたいと思っています。」
一部の最後は、バード・フォト・アーカイブスに提供されたすばらしいモノクロ写真を、「レンズの記憶」というスライドショーで御紹介いただいた。
二部は2007年1月15日に御逝去された、日光野鳥研究会に講演にきていただいたこともある野鳥録音家 蒲谷鶴彦氏の生涯を紹介した、「日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく」と題されたコンテンツが披露された。3月17日に蒲谷先生を忍ぶ「天国の蒲谷鶴彦さんと野鳥の声を聞く会」が行われた折に前半が上映されたが、完全版の公開は今回が最初ということになった。上映終了後、収録したDVDは御家族に贈呈された。
【報告: BY】
【写真: YR、IT】
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